お茶庭の「露地」にみる水の使われ方と日本人の美意識

自然と水との対話について、今回は前回の続きをお届けします。

前回の内容はコチラで!

『作庭記』から見える日本文化における水と自然との対話方法

2016.07.29

 

今回は、「お茶の作庭」をご紹介。

お茶庭といえば「露地」ですね。

この露地の作庭について、古書の『露地聴書ろじききがき』では、次のように伝えています。

飛石は利休はわたりを六分に景気を四分に申候由、織部はわたりを四分に景気を六分に申候

千利休は「わたり」、つまり実用性を重んじ、古田織部は実用より景観を重んじたということです。

たかが一分、されど一分。

力点をどちらに置くかによって、二人の個性は全く違った露地を演出します。

 

しかし、重要なのは、その実用と景観との調和・バランスです。

どちらに力点を置くにせよ、調和がとれていなければなりません。

茶室への出入りに客が通る通路ですが、

「山居の躰」をそこに創出するのです。

自然を構成するための配置、植裁によって作庭する、この作庭思想が日本人の美意識に大きな影響を与えることになるのです。

 

なお、千利休の教えを伝える『南方録なんぽうろく』の「覚書」に、露地について次のように述べています。

露地にて亭主の初の所作に水を運び、客も初の所作に手水をつかふ。

これ露地、草庵の大本也。此露地に問ひ問はるる人、たがひに世塵のけがれをすすぐ為の手水ばち也

露地とそこにしつらえた蹲踞つくばいの水によって、世俗の汚れを洗い流すということ。

茶室という世俗を遠く離れた別天地に入るためには、水による禊が必要だったのですね。

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