朝廷における丹生川上神社の位置づけ。奈良時代末~平安朝前期の奉幣奉馬の歴史から。

丹生川上神社が、祈雨における「特定社」として国史に登場するのは奈良時代末。天平宝字年間から。

特定社とは、わかりやすく言うと、朝廷から特別に認定された神社のこと。

『類聚三代格』所収、寛平7年(895年)6月26日官符所引の神祇官解状によると、同社は、

立我宮柱以敬祀、為天下降甘雨止霖雨

「我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨を止めむ」

との神託により吉野山中に創建されたものと言われ、ごく早い時期、おそらく創建当初から祈雨止雨社としての性格を持っていたと考えられます。

しかし、その創祀の年代や経緯は不明で、奈良時代末になぜ突然、国史に登場したのか、その理由はよくわかっていません。

ただ、同社は大和地方の水源である吉野深山の三つの河川の合流点に位置していて、「雲を興こし雨を致す」に験ある神社として注目される地理的条件は備えていました。

また、同社は年代は不詳ながら、かなり早い時期から、大和国において大神社(大神神社)と並ぶ有力社であった大和社(大和神社)の別社であったようです。

丹生川上社の地位の上昇確立には、おそらくこの大和神社との関係が関わっていると考えられます。

さて、そんな丹生川上神社ですが、

同社は、桓武朝以降も、しばしば単独で奉幣奉馬をうけ、また延歴19年には、月次幣に預かることを定められる等、平安遷都後も重視されました。

なお、祈雨きうには「黒馬」を、止雨しうには「白馬(又は赤馬)」を朝廷が献上していたそうです。

祈雨、つまり雨乞いに「黒馬」というのは、黒=雨雲、というところから。

逆に、止雨、つまり長雨が止むように「白馬」というのは、白雲≒青空、から。

 

ちなみに、祈雨における特定社はもう一社重要な神社があります。現在の京都の、貴船神社です。古代の名前は、貴布禰社。

貴布禰社は、嵯峨朝の弘仁年間に特定社として登場。この神社が位置する加茂川上流の洛北山中は平安京の唯一の水源地帯だったこともあり、平安時代は重要視されるようになった次第。ここには、王城鎮護の加茂社との関係が深かったことも影響しているとか。

嵯峨朝において、祈雨用の神社として丹生川上社に加えて貴布禰社が追加されるようになったのです。

2社への同時奉幣は嵯峨朝においては一例ながら、その後、これが固定化・慣例化していくようになります。

ただ、宇多・醍醐朝あたりまでは、大和地方のみのひでりでなくても丹生川上社への単独奉幣奉馬がみられるところからも、平安前期においては「祈雨止雨といえば丹生川上社」といった確固たるポジショニングを確保していたようです。

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