「水の信仰」の歴史と概要まとめ|水の神様や歴史、全国の主な事例をまとめてみました

日本人は、水に対する恩恵と恐怖を神格化し、諸神・諸仏等に仮託かたくして信仰するという形をとってきました。

仮託かたくとは、他の物事を借りて言い表すこと。

神様や仏さまという尊い神秘的な存在を借りて、崇め、尊び、畏怖しながら、その超自然的な力をし信仰する、ということですね。

日本において、水に対する信仰は非常に多くて、枚挙にいとまがありません。今回はその中でも概要としてまとめ、全体的なイメージをつかんでいただければと思います。

 

日本全国の水の信仰概要

神代の水神~「罔象女みつはのめ」「龗神おかみのかみ」「高龗神たかおかみのかみ」~

最初は神代から。

日本神話に「水の神様」が登場します。

日本神話とは、日本最古の歴史書『日本書紀』ならびに日本最古の書物である『古事記』に書かれている物語。

ここでは、「罔象女みつはのめ」が「水神」として登場します。「みつはの」と名付けられているので、性別があるとすれば女性であろうと思われます。

『日本書紀』の神代上(第5段一書第二および第三)に、火神を生んで伊弉冉尊いざなみのみこと(♀)が焼け死ぬ際に、水神の「罔象女みつはのめ」と土神の「埴山姫はにやまひめ」を生んだという一節があります。

『古事記』では「弥都波能売神みつはのめのかみ」と表記。

これが文献上で確認できる、水神の源流です。ちなみに、あとで出てきますが、罔象女みつはのめは水神宗社である、丹生川上神社の祭神です。

また、罔象女みつはのめとともに、日本における代表的な水の神に「龗神おかみのかみ」「高龗神たかおかみのかみ」があります。 『古事記』では「淤加美神」と表記されます。

伊弉諾尊いざなきのみこと迦具土神かぐつちのかみを斬って生じた三柱の神のうちの一柱が「高龗神たかおかみのかみ」であると伝えます。

こちらも、あとで出てきますが、高龗神たかおかみのかみは貴船神社(京都市)の祭神として位置づけられています。

他にも、日本神話の別の段である「海幸彦、山幸彦」の物語では、「竜宮-海神-水を操る」設定が使われています。

以上が、文献上の最古であり、神話の時代における水神、水信仰の原点であります。

 

一方、見逃せないのが「天津罪あまつつみ」。

これは、神様や信仰のはなしではなく、罰則規定のお話し。でもとても重要なので触れておきます。

天津罪あまつつみ」とは、神道における罪の観念で、『延喜式』巻八「祝詞」に収録される大祓詞に対句として登場します。

この中に、「天津罪とは、畔放。溝埋。樋放・・・」と八重罪のうち、3つが水稲耕作、水に関係しています。

  • 畔放(あはなち) – 田に張っている水を、畔を壊すことで流出させ、水田灌漑を妨害すること。『日本書紀』には素戔嗚尊が高天原にある田んぼに対してこれを行ったとあります。『古事記』にも同様の記述あり。
  • 溝埋(みぞうめ) – 田に水を引くために設けた溝を埋めることで水を引けないようにする灌漑妨害のこと。こちらも『日本書紀』『古事記』に同様の記述があります。
  • 樋放(ひはなち) – 田に水を引くために設けた管を壊すことで水を引けないようにする灌漑妨害のこと。『日本書紀』に記述があります。

水と深く関連する水稲は、生活の基盤です。それに対する妨害や破壊を「大罪」として位置づける考え方はとても興味深いものがあります。

特に、日本では神話に、天照大神が

  • 「粟稗麦豆」を「陸田種子はたけつもの
  • 「稲」を「水田種子たなつもの

として、「是の物は、顕見うつしき蒼生あをひとくさくらひてくべきものなり」(『日本書紀』第五段一書第11)と定めた上に、高天原に田を営み、秋に豊かな稔りの稲を収穫したと伝えています。

この稲作用の灌漑施設を破壊する行為を、「祝詞」が特に「天津罪」という重い罪と定めているというわけです。

その背景には、稲、米、酒などを宗教儀礼に使用すること、稲が無くては祭祀が成り立たないということがあります。

日本の民族信仰、ひいては精神文化に占める稲の極めて大きな意味を、「天津罪あまつつみ」という規定が如実にものがたっていると言えるのです。

そして、もちろん、この稲作に不可欠なのが「水」ですね。

 

古代の水神信仰

歌に詠まれた水神

さて、神話の時代から古代に入っていきましょう。

まずは、奈良時代の龍神信仰の最古の例から。

『万葉集』巻二、相聞歌に、天武天皇とその奥さんである藤原夫人ふぢはらのぶにん(藤原鎌足の娘)との唱和歌があります。

明日香清御原宮御宇天皇代(天武天皇)

天皇、藤原夫人に賜へる御歌一首

わが里に大雪降れり大原の 古りにし里に 降らまくは後

→わが里に大雪が降ったぞ。大原の古びた里に降るのは後だろう。(さすがにわたしのいる所はたいしたものだろう。)

藤原夫人、和へ奉れる歌一首

わが岡のおかみに言ひて降らしめし 雪のくだけしそこに散りけむ

→私の住む岡の水の神に言いつけて降らせた雪のかけら(おこぼれ)が、そちらに降ったのでしょう。(なのに先に降ったなどと得意になっていらして。まあおかしい。)

これは、天武天皇が、飛鳥宮よりも田舎の大原の里を「そちらは田舎なので雪が降るのはもう少し後だね」とからかったのに対して、藤原夫人ふぢはらのぶにんが「飛鳥宮にふった雪は大原の「おかみ」である水神に頼んで私が降らせたおこぼれですよ」と、当意即妙にやり返したというもの。

もともと藤原一族が神として祀る「おかみ」は水を司る龍神なので、雨を降らせることができます。

「降らしめし」ですから、もう過去のこと。その雨が雪となって降った後、それが凍って砕け散った欠片を、天皇は大雪がふったとはしゃいでおられる。水の神に言って真っ先にふらせていることをご存じない、なんとまあ、と、皮肉たっぷりに返したというわけです。

ちなみに、大雪には、豊作を予祝する意味があります。

このことから、水を司る龍神信仰が奈良時代には信仰されていたことが分かります。

 

祈雨・止雨

さて、ここからは雨乞いについて少し深堀りしてお届けします。

まずは背景から。

日本の中心地としてあった大和平野は、瀬戸内気候帯の東にあって乾燥地帯、現在でも「ため池」の数は数千の単位で存在します。

これは、第二の讃岐(香川県)を大きく引き離しています。意外ですね。

要は、少雨地域でもあり、大河川が存在しないことが影響しています。

なので、祈雨・止雨に対して、古代から朝廷を中心として諸神に祈願する土壌があって、律令制のもとで全国統治が進むにあたって、朝廷の中心的行事となっていったわけです。

その代表例を2つ。

丹生川上神社

現在、上社、中社、下社の3社の総称としてあります。

奈良県吉野郡の吉野山を中心にあり、奈良時代から平安時代にかけて、最も朝廷の崇敬が厚かった官幣大社の司水神です。

先に神話の時代に登場した水神を祀ります。

上社は「高龗神たかおかみのかみ」、中社は「罔象女神みつはのめのかみ」、下社は「龗神おかみのかみ」。

まさに水神3柱をもれなくといった感じ。

その中心は、中社で、奈良県吉野郡東吉野にあります。

第40代天武天皇白鳳4年(675年)

人聲の聞えざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨を止めむ

との御神教により創祀されたという伝承あり。

尚、年号の「白鳳」は、7世紀後半、特に天武・持統天皇の時代を指す年号ですが、実際にはその時代に「白鳳」という年号は存在していません。なので、上記の伝承も後世のものです。

ただ、『日本書紀』の天武天皇5年是夏条に、勅使(奉幣使ほうへいのつかい)を遣わして幣帛を諸神祇もろもろのあまつかみくにつかみに捧げ、祈雨の祭祀を行わせたと伝えていますので、この記事などを参考したことが考えられます。

また、「人聲の聞えざる深山吉野の丹生川上に~」については、実は淳仁じゅんにん天皇の天平字7年5月(『続日本紀』)の「幣帛を畿内の群臣に奉らしむ。其の丹生の河上の神には黒毛の馬を加ふ。ひでりすればなり」という記録が歴史に登場した始めです。

これ以降、幣帛に加え、ひでりの場合には、黒毛の馬を、霖雨ながあめの時は白馬を奉るのが例となります。

平安に遷都する延歴13年までにざっと数えて15回ほど丹生川上の神に祈雨もしくは止雨の祭祀を行っています。

なぜ、丹生川上をそうした祭祀の場としたのか?

その理由を上記の伝承は「人聲の聞えざる深山吉野」という土地柄に求めています。

確かに、それもありますが、例えば、光仁天皇の宝亀6年6月に

「黒毛の馬を丹生川上の神に奉る。旱すればなり。其れ畿内諸国のさかいに神社の能く雲雨を興せるものには、亦使いを遣して幣を奉らしむ」

『続日本紀』巻33

と伝えるとおり、雲雨をわき起こす神がそこに坐すと考えられていたからです。

歴史に丹生川上の神が登場する以前は、「幣帛を諸社に奉り、雨を名山大川に祈る」(文武天皇の大宝元年4月。『続日本紀』巻2)という、「名山大川」の神が大勢を占めていました。

丹生川上の地は、その意味で、吉野山の奥深く、そして吉野川の源流に近いところにあります。

「名山大川」に代わる祈雨・止雨の朝廷の期待を担う神としての地位を築いたわけです。

そして雨師の明神、水神宗社として朝廷の崇敬を集め、「延喜式(927年)」には「名神大社」に列せられています。

平安時代中期以降は、祈雨の神として「二十二社」の一つに数えられ、祈雨には黒馬を、止雨には白馬(又は赤馬)を献じられるほど朝廷から重視される。応仁の乱まで96度にわたって、雨乞い、雨止めの奉幣祈願がなされたそうです。

貴船神社

京都市左京区鞍馬貴船町にある神社です。

天武天皇の白鳳6年(677年)創建で、司水神として山城国の加茂川の上流、貴船川畔に鎮座しています。丹生川上神社と同じく、特に、平安朝以降、祈雨・止雨の神として崇敬を集めました。

嵯峨天皇弘仁9年(818年)7月には、旱がひどく、五穀の色が変わるほどだったようで、朝廷では幣帛・黒馬を献じて雨を祈りました。翌年の弘仁10年6月には、今度は霖雨が長く続いたため、幣帛と白馬を献じて晴れを祈ったそうです。

ここから、旱霖・雨水の際には必ずこの祈願がされるようになりました。

特に、2月9日の雨祈祭‐雨乞祭には、本社・奥宮・雨乞滝で、その年の降雨の適度であることと五穀豊穣を祈ります。

滝壺では、

おおみたのうるほふばかりせきかけて ゐせきに落せ川上の神

の秘歌を唱えます。

上記2社は、奈良時代から平安にかけて、祈雨・止雨について、特に朝廷の崇敬を集めた神社。また、これにより、水神信仰として全国的に広がっていくわけですね。

 「水分」信仰

大和周辺で忘れてならないのは「水分みくまり」信仰です。

大和には代表的なところで、吉野・葛城・宇陀・都祁つげがあります。

それぞれの地の、「水分みくまり(水を配分する処、水源)に坐す皇神等」が水を司り、稲穂の豊かな稔りをもたらせてくれるならば、その初穂をうず高くお供えしたうえで、天皇が朝夕の食事に召し上がるので幣帛を奉りお祈りするというものです。

『祝詞・祈念祭』には、以下のような内容が記載されています。

のこりをば皇御孫すめみまみこと朝御食あさみけ夕御食ゆふみけのかむかてに、長御食ながみけ遠御食とほみけと、赤丹あかにのほに聞こしめすが故に

豊作をこの「水分」の神がもたらす、という信仰は、農耕・稲作にとって不可欠・貴重な水に対する信仰に根差しているんですね。

あがめるべきはまさに、水そのもの、なのです。

他にも、

例えば、文武天皇2年(698年)には、馬を吉野の水分みくまりの峰に奉って雨を祈ったとあります。

ちなみに、「みくまり」はなまって「御子守」となり、子守神として有名になったりもしてます。

ちなみに、この水分の展開について少しふれておきます。

水分と川上社が吉野山とその周辺にあるため、吉野山の本尊蔵王権現と吉野山自体の金の峰信仰などが一体化して信仰されていきます。

これにより、蔵王信仰-御岳(三岳)-金峰-水神 となっている例が結構あります。

これ、ちょっと一気に飛びますが、東北では宮城県の蔵王刈田嶺神社では天水分神・国水分神を祀っています。もともと水神社として称していたこともあったようです。

同じく、宮城県本吉郡の三岳蛇王権現は、佐沼御前ともいい水神でもあります。

青森県三戸郡西越の三岳神社も俗称「蛇王権現」といい、竜神を祀り、雨水の神様です。

このように大和での水神信仰が全国的に広がっていることがわかりますね。

 

平安以降の水神信仰

弘法大師と「善女竜王」

さて、古代から進み、平安初期になると、こんなものも。

現在の京都市の神泉苑は、弘法大師が「善女竜王」を請じて雨乞いをした霊地とされてきたスポットです。

平安京(大内裏)の南東隣りに位置し、八町の規模を有する苑池であり、禁苑とされています。苑内には、大池、泉、小川、小山、森林などの自然を取り込んだ大規模な庭園が造られてます。

天長2年(824)淳和天皇の勅命により、弘法大師空海は神泉苑の池畔で祈り、北印度の無熱池の善女龍王を勧請(呼び寄せ)したところ、日本国中、雨が降り、人民が大いに喜んだとのこと。これ以降神泉苑の池には善女龍王が棲んでいるという次第。

神社だけではないという例ですね。

国司による雨乞い

神社やお寺だけではありません。

平安時代には史料のなかで、国司が雨乞いをしていたことがうかがえるものがあります。

例えば『日本紀略』においては、

大同4年(809年)7月辛酉、(嵯峨天皇)勅すらく、「頃来亢旱こうかん災いを為し、水陸焦枯しょうこす。若し祷祈とうきするに非ざれば、何ぞ斯の難をすくわん、云々。宜しく国司斎戒さいかいし、例に依りて祈雨すべし、云々」と。

斎戒さいかい」とは、神仏に祈ったり神聖な仕事に従ったりする場合に、飲食や行動を慎んで、心身を清めること。

嵯峨天皇が国司にこの「斎戒」を命じているのです。

「秋7月」は新暦でいうと9月。9月に入っての日照り(旱)に対して、嵯峨天皇は国司に斎戒して「例に依りて」、つまり、慣例に従い祈雨をするように命じていたという事です。

中央政府による神社を通じた雨乞い。近畿以外では京職や国司による雨乞いが行われていたとみることができます。

国司つながりで、大伴家持の歌に雨を祈るものがあります。

『万葉集』巻18の4122

『万葉集』巻18の4122~4144は、大伴家持による雨乞い歌群と呼ばれています。今回ご紹介するのはその最初の歌。4122番。

天平感宝元年閏五月六日以来の日照り続きで、民の田畑はしだいに生気を失っていったが、六月一日になって、突然雨雲の立つ気配があった。

そこで作った雲の歌の長歌。長反歌各一首。天平感宝元年六月一日の夕方、大伴家持の作です。

天平感宝元年は西暦749年。1か月ほど日照りが続き、雨の降った6月1日は7月23日にあたります。

ここでは、天皇の支配領域である天下を「馬の爪 い尽くす極み 船のの いつるまでに」と表現していますが、これは、収穫を祈願する祈年祭の祝詞「舟のの至り留まる極み、・・・馬の爪の至り留まる限り」を踏まえたもの。

天皇の支配する天下においては、最上の貢物は農作物であるという認識で、家持の視点が投影されています。

 

天平感宝元年閏五月六日以来起小旱百姓田畝稍有彫色也 至于六月朔日忽見雨雲之気仍作雲歌一首 短歌一絶

天平感宝元年閏てんぴやうかんぽううるふ五月六日より以来このかた小旱せうかんを起こし、百姓おほみたから田畝でんぼやくやくにしぼむ色あり。六月朔日つきたちに至りて、たちまちに雨雲の気を見る。よりて作る雲の歌一首〈短歌一絶〉

天平感宝元年閏五月六日以来、いささか日照りが続き、民の田畑はしだいに生気を失っていった。六月一日になって、突然雨雲の立つ気配があった。そこで作った雲の歌一首 と短歌一首

続けて

須売呂伎乃 之伎麻須久尓能 安米能之多 四方能美知尓波 宇麻乃都米 伊都久須伎波美 布奈乃倍能 伊波都流麻泥尓 伊尓之敝欲 伊麻乃乎都頭尓 万調 麻都流都可佐等 都久里多流 曽能奈里波比乎 安米布良受 日能可左奈礼婆 宇恵之田毛 麻吉之波多気毛 安佐其登尓 之保美可礼由苦 曽乎見礼婆 許己呂乎伊多美 弥騰里児乃 知許布我其登久 安麻都美豆 安布芸弖曽麻都 安之比奇能 夜麻乃多乎里尓 許乃見油流 安麻能之良久母 和多都美乃 於枳都美夜敝尓 多知和多里 等能具毛利安比弖 安米母多麻波祢

天皇すめろきの 敷きます国の 天の下 四方よもの道には 馬の爪 い尽くすきはみ 船のの いつるまでに いにしへよ 今のをつつに 万調よろづつき まつるつかさと 作りたる その生業なりはひを 雨降らず 日の重なれば 植ゑし田も まきし畑も 朝ごとに しぼみ枯れ行く そを見れば 心を痛み みどり子の 乳乞ちこふがごとく 天つ水 あふぎてそ待つ あしひきの 山のたをりに この見ゆる あま白雲しらくも 海神わたつみの 沖つ宮辺みやへに 立ち渡り とのぐもりあひて 雨もたまはね

天皇のお治めになるこの国の、天の下の四方に広がる国々には、馬の爪がすり減ってなくなる地の果てまで、船首が行き着ける海のかなたまで、遠い昔から今にいたるまであらゆる貢ぎ物を奉るなかでも第一としてきたその農作物であるのに、雨の降らない日が重なってゆくので、植えた田もまいた畑も朝ごとにしぼんで枯れてゆく。それを見ると心が痛んで、幼子が乳をせがむように、天からの水を振り仰いで待っているのだ。(あしひきの)山の鞍部に今見えている天の白雲よ、海の神さまの沖の宮のあたりまで立ち広がって、一面に空を曇らせて雨をお与えください。

 

右大臣実朝と八大竜王

中世初頭、『金槐和歌集』では、鎌倉将軍、右大臣実朝の歌が掲載されています。

時により 過ぐれば民の嘆きなり 八大竜王はちだいりゅうおう 雨やめたまへ

→恵みの雨も、時によって降りすぎると民の嘆きになりる。八大竜王よどうか雨をやめてください。

八大竜王とは、仏の教えを護る八体の蛇形の善神。密教などでは、水神として雨乞いの祈りの本尊になるそうです。長雨に困窮する民衆のために、為政者としての責任を果たすためにただ一心に念じた和歌です。

ここでは、八大竜王が司水神であることが表されていますね。

 

全国の竜神信仰

さて、最後に、竜神系としていくつかの例をお届けします。

先に登場した「龗神おかみのかみ」は竜神なのですが、竜蛇信仰の例は日本全国にあって枚挙にいとまがありません。

例えば、大和国の室生寺。

木津川上流の水源地として深く信仰され、周囲に五竜神が棲み、国宝の五重塔の宝輪に封じ込められたといいます。また、近くの竜穴神社は祈雨・止雨の神社としても名高いものがあります。

その他、九州にある宗像神社の宗像三神は、海・水神で竜宮の竜王・竜女として知られています。要は竜蛇を本体する信仰ということですね。

四国の万能池の竜神・河童、有名になってから逆輸入的な感じで信仰されるようになった久留米の水天宮、北陸の白山は九頭竜川に結び付く竜蛇信仰ですし、関東では榛名山の竜神、東北では月山-農業神-竜蛇、金華山の竜蔵権現-弁天信仰、秋田の太平山のおお蛇信仰、岩手山の竜蛇、青森は八戸の法領社のおがみ様、十和田市法量神社の竜神等々。

また、仏教系でも、山形県善宝寺の竜王・竜女、男鹿半島の大竜寺の竜王、岩手県浄法寺の天台寺弁天、田沢湖の辰子竜神、八郎潟の八郎竜神、等々。

と、まあざっと有名どころを挙げてみましたが、これだけでなく他にも数え切れないほどの竜蛇信仰があります。

 

まとめ

古代より、日本人は水に対する恩恵と恐怖を神格化し、諸神・諸仏等に仮托して信仰するという形をとってきました。

神話の時代から水神は登場し、奈良・平安にかけて水稲文化をベースに祈雨・止雨が儀礼化されていくようになります。そして全国へ。

もちろん、全国にはその地域ごとに独自の水神信仰の原型があったと思いますし、そうしたなかでは中央の信仰と結びついて形式化されていったものもあったはずです。

いずれにしても、そこには日本人独特の水に対する信仰のあり方があらわれているんですね。

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